シーボの日記

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しぼにゃん流ダイエット術(手記)

っていう題名でダイエットログみたいなものを書こうと思います。


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木を見て森を見ず(手記)


「ねえ、私のどこが好きなの?」

「そうだねえ・・・」


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絡み酒(手記)


今日は金曜日の夜でさっき研究室から帰ってきたわけでさ、普段は一人でお酒なんか飲まないわけなんだけどさ、ビールを一杯飲みつつ文章でも書いてみようかな、なんてことを思っています。いわゆる文章での絡み酒ってやつです。ほらちょっと、僕のmixi日記にあしあとだけ付けてブラウザを閉じるなんてやめてサ、僕といっしょにお酒を飲みましょうよ!「しぼにゃん愛してる!」ってコメントを残して僕と絡みましょうよ!(この時点で既に虚しくなってきた)

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冬(手記的な)

まだ秋だと思っていた最近も夜中はとても冷えるようになりました。

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手記 (2010.9)

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手記(2010.8)



2010.8.31 (Tue)


30度を超える猛暑は未だに続いておりますがみなさまいかがお過ごしでしょうか。しぼにゃんは猛暑で溶けそうです。8月もついに終わり、9月となりました。さて、最近のわたくしといえば研究室に向かっては現実逃避の夢想に励み服着た犬は鏡の前何を思うのだろう、という取り留めもないことに一日を費やしては無知蒙昧な20代中盤の消化に暇 (いとま) がありません。

さて、そんな妄想も猛りに猛り最近よく考えるのは「トラブルメーカー」に関してであります。

まずはあなたの周りの少なくない友人達をご想像くださいませ。何もかも話せるご友人、切磋琢磨の仲にあるご学友、すべてを受け入れてくれる恋人に気慰みの愛人と、リア充な貴方にはいろんな人間関係があるかとご拝察申し上げます。さて、そんな人間関係の中にも「トラブルメーカー」というのはいつも、宿命的に存在しているのではないでしょうか。貴方の周りには男を誑かし拐かし非道い仕打ちをする女狐がいませんか。女性に好意を嘯いては落とした瞬間に捨て去る、という下卑た人物はいませんか。「トラブルメーカー」はどんな人物にも発現しうる資質でありますので、特定の誰かを非難しようと思っているわけではないということはご了承ください。

さて、友人である貴方は彼らの話を居酒屋の席で聞くことになるのかもしれませんし、電話口で知ることになるかもしれません。あるいは、当事者として辛酸を舐めた方もいらっしゃるかもしれません。彼らはたいてい自身の行為の引き起こす結果に対して無意識であります。いえ、無意識的であるほかはないのです。ミステリィ小説の主人公の周りにおいて殺人が起こるのは犯人のせいではありません。彼ら ”主人公” が周りの人をどうしようもなく「壊して」いくのです。よく物を壊した人が言い訳をするときに「壊れた(自動詞)」ということがありますが彼らの領分においてそれは「壊した」のではなく「壊れた」なのであります。だから彼らはなんにも悪いことはしていない。主観的、および現象論的な視点を許す限りにおいて仕方のないことであるように思いますし、この資質が自身に発現していると気づけるほど自身を客観視している人物を僕はあまり目にしたことがありません。

さて、僕ら子羊のような「一般人」は彼らトラブルメーカーを前にしたときに如何に対処するべきなのでしょうか。暴力的、およびそれに付随する強硬的な手段に訴えることは短絡的に過ぎますし、「人を壊す」という彼らの性質にどっぷり嵌ってしまったことになります。「一般人」の僕らは理知的で理性的な人間であり、合理的で有効な解決方法を考える必要があります。

先程も申しましたようにこの資質は人間関係の中で誰しもに発現しうる資質であります。そのためこの問題は人間関係を前提とする上では不可避の問題です。(え?貴方の周りにはトラブルメーカーがいない?たぶんきっと貴方ですよ!)

さて、これら不可避の問題に対してどのような対処があるでしょうか。人間関係を全て断ち切る、あるいはそういった問題に鈍感になるといった方法があるでしょう。しかしこれらは全て消極的な方法です。自身の溜飲を下げるための消極的な自己満足は根本的な解決ではありません。構造的に生じる問題に対してそのような便宜的な解決方法を提示することは現状維持の意味合いが強く、改善とも呼べません。時折苦難に対しては自身の沈黙が有効であるとか、あるいは先の消極的な手段が自身の人間的な成長を促すのであるという論調を目にしますがそれは大きな間違いであります。私たちは積極的に、彼らの人間関係に対して戦略を練って自身に災厄が降りかからない有効打を打つ必要があるのです。

そのような有効打は存在するのでしょうか。ひとつの有効打として考えられるのは彼らの「無意識」を取り払ってやることだと思います。彼らが引き起こす、あるいは引き起こすであろうと思われる事象に対して積極的な喚起する必要があります。裏切られることを恐れてはいけません、嫌われることを恐れてはいけません。相手が抱えた無意識を知覚させること、それは決して悪いことでもないし積極的な人間関係への寄与であります。もちろんこの有効打もうまく立ちまわる必要がありますが、それらは心情の機微を巧みに利用する必要があります。

ここまで述べてきましたように、これらトラブルメーカーに対しては注意を払いつつ対応をしなければなりません。あなたの周りにはトラブルメーカーがいらっしゃいますか。彼らに対しては、積極的に、有効打を打っていかなければいけません。彼らは多くのトラブルを抱えています。だから扱いには細心の注意をお願いします。下手に叩くと薮蛇になりかねません。叩かれるとムキになってトラブルを起こしかねません。

「デブ」

とか、ダイエット中の人に向かって言ったやつは、トラブルまみれにしてやるからね!マジで!!




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手記 (2010.7)

【過去ログ】
2009年 9月 10月 11月 12月
2010年 1月 2月 3月 4月 5月



2010.7.30 (Fri)

鍵


ある日ある時貴方が恋人の部屋の合鍵を手に入れる日が来るとして、それは何かを証明するだろうか。人を愛したり好意を抱いたりする際に「付き合っている」ということが昔の僕にとって愛することを証明する唯一のものだった。けれどもそれは全くの幻想で、付き合っていても不貞を犯す異性もいるし、別の人に好意を抱く自分もいるはずだ。僕がそんな当たり前のことを思い知らされたのは数年前のことで、一般の人に比べたら遅いのかもしれない。それまでの僕はただ単に「恋人」という関係の上にふんぞりかえって、当然の権利のごとく相手を非難したことがあった。相手の寛容をいいことに独占欲を強くしてしまうこともあった。僕の中で「付き合っている」ということが必ずしも信頼の証と同値にならないこと、あるいは好きだと思う気持ちと相手を信頼することが別問題であると思えてしまう以上、それらの超克の上に「愛すること」ができるかどうかは、かなり難しいように思う。

ある日ある時誰かが誰かに「鍵」を渡したとして、相手の中に潜む怪物、あるいは自分の中に潜む怪物の扉をも開けてしまうのではないか。あるいは、その上にこそ成り立つ愛情こそが本当の愛情なのかもしれないな、とも思う。









2010.7.26 (Mon)


言葉を発するとき、それは特定の相手に向けられている。そう、集合の一要素に向けて発語されている、ということが実は多い。抽象度を上げて発言から対象が特定できないようにしたとしても、間違いなくその発言の裏側には具体的な人間が該当する。もちろん文章全体から特定の一人を指す場合ではないにしろ、僕の感情の裏にはいつだって人間が存在して、その人に向けて届くかどうかもわからないメッセージを放っている。そんなことをつい最近考えつつある。結局のところ僕は一般論を述べて高尚なフリをしたいのではなく、誰かに聴いて欲しくて、誰かに気づいてほしくて言葉を並べ立てるんじゃないか。言葉を発するということは、結局はそこに由来するものであって、自分の気持ちをごまかしてまで発語する必要はないのかもしれない。




2010.7.26 (Mon)

「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていた」

僕の敬愛するMr Childrenのイノセントワールドにはこのような歌詞がある。ふつう、多面的に物事を捉えられる人間は強い。ギャンブルをする折、相手の顔色から感情の機微を読み取れる能力に長ける人は麻雀の盤面上の計算を軽々とやってのける能力と同じくらい大切であるし、初めて失恋をした人間よりも何度も失恋をした人間のほうが失恋からの立ち直りは早いはずだ(もちろんその感情の入れ込み具合にも依るし単純に正の相関はないのだろうけど・・・)

たとえば恋愛のことを考えてみよう。昨今の恋愛とは実に多面的な意味をもつものであり、愛し方、愛され方や恋愛における考え方などはかなり異なっている。いろんな人の話を折に触れては聞く機会が比較的多い僕は人の話を聞くたびに「同じ人間なのにここまで考え方が違うのか」と驚かされることが多い。以下に僕が述べることは傍聴者としてできるだけ相手の真意を素直に取り出そうと心がけた結果、かなりの誇張などを含めて、恋愛とは多くのケースがあるのだということを書きたいと思う。嘘やフィクションも多分に混じっていることを留意の上で読み進めていただきたい。

ケース1

「いやぁ、別にファッ◯できればいいんすよぉ」

カクテル片手に語る彼はまだ10代の男性だ。実に素直に彼は語る。大学に入学したばかりでお酒にも慣れない彼は周りが脱童貞していくさなか、自身の純情を持て余し20代になった今もまだ牙城を崩すことはない。性欲が先行する恋愛というのはある意味とてもシンプルだ。というのも人を愛することと性欲が同一視され縮退しているからだ。


ケース2

「楽しければいいんですょぉ」

いろんな男性を(文字どおり)股にかける彼女は語る。20代になったばかりの彼女は人目を憚ることなく僕に語った。彼女にとって恋愛とは実に享楽的な意味を持つもので、自分が楽しければ良い、のである。その周りに生じうる軋轢や災難などなんのその、うまい具合に立ち回りその荒れた人間関係のなかにさえ楽しみを見出そうとしているところさえ見られるのだから、もうこれは敬意を表すしかないのである。


ケース3

「浮気とかする女性はあんまりいないと思いますよ!」

恋愛に対してかなり疑心暗鬼だった僕にそんな言葉を放った女性がいた。彼女はいま現在好きな人がいて、純粋に彼のことを愛している。相手に対して全面的に信頼をおけるその言葉の裏にはある意味での強さと脆さが併合していることを感じながらも、僕が失ってしまっているものを、内示的に気づかせてくれるのである。



と、幾らかの恋愛に対する考え方を折に触れては聞く機会がある。彼らの考えと僕の考えは当然違うし、聞き手である僕がかなりの歪曲を行った上で相手の考え方を理解したフリをしている可能性もある。それでも人の話を聞くというのはとてもとても面白いことだと思うし、物事を多面的に捉えることができるという意味で有意義だと思う。さて、冒頭にて述べた「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていた」でありますがそんな風に他人の考えを聴いてばかりで一向に彼女ができる気配がありません。


人の話を聴いてばかりの僕は、いつも割を食ってばかりなのかもしれない。そしていろいろ何も考えずに書いてみたけどオチがない。僕も恋にオチない(さむい(そろそろ死のうか




2010.7.4 (Sun)


僕のなかで言葉はまわりまわって、そして時折外に出てくる。

時として言葉は人を傷つけるものにもなりうるけれど、人をずっとずっと優しくさせる言葉もある。それはきっと聖書なんかに乗ってる難しい言葉でも、手垢にまみれた偉人たちの名言なんかでもなくって、きっと僕が好きな人たちが放った、なんの気のない一言だったりするかもしれない。人を救ってる気なんてなくても、僕の言葉があなたを救うことがあるかもしれないし、あなたの言葉が僕を救ってることはたくさんある。言葉が伝達によって増幅する機構をもち、ときには残酷に人の心を引き裂くこともある。一心同体であり、コインの裏表でもあり、捉える人によっても違ってくる。僕たちはときおりその結果を恐れてしまい、口を塞いでしまうこともあるかもしれない。けれど僕はやっぱり口を開いてしまうし、どうしたって人との関わりを求めてしまう。求めれば求めるほど傷つけてしまう加害妄想と被虐嗜好が宿命的に存在するとしても、それでも僕は話したいと思うし、耳を傾けたいと思う。




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手記(2010.6)


2010.6.10 (Thu)

たとえば10代前半の頃「悩む」という行為はとても強い衝動から生じるものだった。その悩みはとても大きなもので、常に頭の中には鈍い苛立ちが存在していた。こころの中でなんども同じ言葉が反芻され、他人の言葉が想起され、(とてもめんどうなことだが)いちいち化学反応を起こしているような状態だった。ものごとは悩むという次元にのみ縮退し、悩むという行為をもってのみ自分自身が正当化されるような錯覚も感じた。10代も後半に差し掛かったところで、どうやら人間というのは(あまり一般化すると問題だが概してそうだろうと思う)悩むのが好きな動物であることに気づく。さらにその「悩みがない人間」というのは比較的まれなケースであることにも気づいたし、彼らもが悩まないように見えるのは多くの場合、思考の単純さに基づくものではなく悩むことからの超克(もしくは逃避)から生じているのではないか、と思うようにもなった。現象論的には一緒だが、根底はまったく違うのだ。

最近の自分はどういった種類の人間になっているのか、ふと考えることがある。上述したような鋭い攻撃性のある悩みというのはいくらか摩耗してしまい、悩む、という行為に酔いしれることも少ないと思っている。けれども漠然とした「ひっかかり」が僕の胸に存在していて、それは自分自身のどんな感情に基づいているものなのかと最近考えている。きっと自分の中ではそれらの原因はわかっているはずであって、言葉にするのも容易い。とてもプリミティブなものであるとも確信している。

それでも。

わかりきった答えを目の前にして二の足を踏んでしまう精神構造は時として自分に思わぬ感情の没落を生んでしまうことがある。それはあたかも躊躇することを楽しんでいるような倒錯的な欲求とも感じさせるし、差し迫った悩みのない自分へ悩みをふりかけるような呪縛的な性質を持ったものだとも感じる。クリアカットな問題をわざと濁らせるような、非合理的な悩みへの回帰という点で、成長したのかどうかさえ、よくわからなくなってくる。はてさて、これはどういった了見だろうか。


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手記(2010.5)


2010.5.30 (Sun)

 たくさんの人が僕の前を通り過ぎて行く。ある人は一週間で走り去り、またある人は二年の付き合いののちに消えてしまった。地理的に疎遠になる場合もあれば、精神的に遠くなる場合もある。記号化されたラベルが、携帯電話のメモリーとして残される。そのうちいくらかは、きっと通じるだろうし、きっといくらかは通じない。ただ単に記録として残されるのみである。
 人との出会いは魅力的だ。魅力的であるが故に僕は過去に出会った人たちを見失う。時折いびつな形として目の前に現れ、記憶を刺激して幽霊のように消えていく。ある人は僕の恋人として、ある人は善き酒飲み友達として、またあるものは単なる暇つぶしの相手として僕を選ぶ。ある役割を終えたあと、似たような役割を持った別の人が僕の役割を埋めていく。弾き出された僕は途方に暮れる間もなく新たな誰かと出会ってしまう。僕は誰のパズルのピースにもなりうるし、また彼らも誰かのパズルのピースに組み込まれていく。それほどに人生というのは不完全で、冗長性に満ちていて、とても巧くできているものだとも思う。
 運命、とはなんだろうか。僕らは簡単にこんな言葉を口にして、そのワードに含まれる日常的な陳腐さに辟易しながらも、それを信じていきているように思う。きっと運命だとか奇跡だとかそういう言葉は、うまく適合できないピースたちが、自分自身に課したルールのようなものだと思う。誰しもが大抵の役回りをうまくことなすことができる中で、自分に課したルールを飛び越えた人たちに執着し、大切に思い、ときには守り、ときには支え合い、ときどき罵倒しあったりもする。そういった執着があまりない人は自分自身が達観していると勘違いしてしまい、より孤独を深めてしまう。だから僕らは意識的にしろ無意識的にしろ、踊り狂う必要がある。アナタたちのことが大事ですよ、君のことが大切なんだ、愛している。ピエロのように踊り狂いアピールすることが現実を生き抜く上で大事であるのならば、僕は自分の心をずぶずぶとその処方箋の海のなかに沈める必要があるのかもしれない。


2010.5.25 (Tue)

昼の間は交通量の多いこの道は、夜になると車も、そして人も少なくなる。外灯がまばらに存在するこの道の右側に僕は佇んでいる。右を仰げば遠くに集合住宅の窓が見える。8階×20部屋はあるこの集合住宅の明かりも既にまばらになっている。どれくらいの時間この光を見ていただろうか。圧縮されたような、あるいは延ばされたような時間の感覚がぼうっと思考に靄をかける。さきほどの雨はもう降り止んだはずなのに。取留めのない感情を傍らによけて、僕はじっとその明かりを見遣る。深夜に差し掛かる前には確かに煌々と光を放っていた部屋が、時間とともにふっと消えて、闇に同化していく。意識を払っていないと気づかないくらい、その存在意義がこれまでなかったかというくらいに簡単に消える。ぼうっとそんな様子を見ていると、集合住宅が一種のボードゲームのように思えてきた。ある窓は白から黒に、ふとした瞬間にぱたんと変わる。ある瞬間に誰かが盤面から抜け落ち、もう二度と戻ってこないような、そんな錯覚さえ覚えてしまうほどに。きっと死というのも僕らの身近にいつも潜んでいて、僕が目を背けた瞬間を狡猾に狙って、僕の周りの人を闇へと引きぬいていくのだろう。今日は僕は運が良かった。僕の生活から巧みに隠蔽された死という存在が、今日はたまたま僕の視界に入ってこなかったのだから。深く、そして潔くため息をついてから家路に戻る。

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手記 (2010.4)



2010.4.19 (Mon)

とある酒の席での一コマ。

「悲観主義者っているだろ、悲観主義者。人生の岐路、とはいわないまでも人生において何かしらの選択を迫られたときに一番最悪の結果を想像して、そうして考えすぎてストレスを抱えちゃう。自分が過去に起こした失敗だとか、その失敗が及ぼす人間関係だとか、うじうじなやんじゃってたり。そういう人ってのはある意味で楽観主義者でもあるんだよな。どうしてかって?だってそうだろ?最悪の事態を想定するのは自分が傷つきたくないから。最悪の事態を想定しておけばこれから起こる結果はまずプラスにしか起こらない。心に傷つく余白をなくしてしまって、そうしてなんとなく傷つかずに済んじゃう。自分を事前に傷つけておいて、なんとなく浅い傷で済ませちゃう。そういう意味で楽観主義者と悲観主義者は表裏一体なもので、両者のうt「うるせえばか」」


2010.4.12 (Mon)

午後は春の日差しにうたた寝を繰り返しながら、夜は爛漫と光るルームライトに照らされて本を読む。ここ数日の僕といえば本を読む以外にほとんど何もしておらず、ただひたすら活字を脳内に注入するだけ。適度なアウトプットというものがなく過剰飽和した脳内の言語は次第に僕の思考を痺れさせているような気もする。せっかくの休日なのだからおとなしく書を置いて座に伏し、ジャズなんか聴きながらリラックスすればいいものの、どういうわけか小説を読み耽る。それは一種の暇つぶしであって、一種の中毒症状であってかつ現実逃避であって、さらにスタンプラリーでもある。どんな喩えをしようとも行為事態はその他になく、過剰な言葉の注入による麻痺の感覚だけが強調されてきている。ふわりふわりと現実との乖離を楽しむほどでもなく、かといって悦楽の海に埋没するでもなく、僕はただ無心に紙を繰る。それはたぶん、きっと、そうなんだと思う。

2010.4.6 (Tue)

新年度になった。M2(修士二年)になった。いまのところ自己紹介をすると「M1です」とか口走ってしまうくらいにはまだ進級したことが実感として抱くことがない程度には4月馬鹿になっている。あれよあれよと学会が終わり、時間が進むのがとても早い。桜も満開で、そろそろ散るころだろうか。桜を見ると自然に微笑んでしまうくらいには僕の精神は単純だけれど、一種の憂いも感じるようになったのは、そしてそれを無自覚のうちに当然と感じるようになったのは、成長なのか、大事なものを失ったせいなのか。僕が得たものは何で、失ったものは何か。杓子定規の天秤に大切な者たちをbetしては、一喜一憂する単純な戯れに付き合ってくれる人がどれだけいるのだろうか。なにはともあれ4月。エイプリルフールにはすっかり嘘をつき忘れてしまった。じゃあ僕はいまから一つ嘘をつこう。ああ、今日はとても素晴らしい日だったよ。

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手記 (2009.2)

2009.2.23 (Tue)

TAなどもようやく終わり、自分の研究に専念できる頃合いとなった。来月には二回目の学会。五月には学振(博士課程でお金がもらえる競争的資金の獲得)のための書類提出のためのお勉強もぼちぼち始めていたりする。自分がこれまで見聞きしたなかで面白いと思えるもの、あるいは不勉強で理解が及ばなかったものなどがたくさんある。もっともっと学問という海を自由闊達に泳ぎ回りたい。そうそう、泳ぐで思い出した。運動もしなきゃな、と思ってる。今日体重計に乗ったら驚愕の体重だったのだ・・・。マジでデブーボになってしまう。

2009.2.17 (Wed)

TAとかあって自分の研究がなかなか進まないので朝5時くらいに研究室にきてみたんだけどちょーねむいっす!


2009.2.9 (Tue)


この世の中のあらゆる書物も
お前に幸福をもたらしはしない
だが、書物はひそかにお前をお前自身に立ち帰らせる


 ヘルマン・ヘッセは読書に関してこう述べた。彼の「車輪の下」を読んだのは小学校高学年の頃だったと思う。僕は毎日図書館に通って、一日一冊本を借りた。一日に一冊読む、というのが至上命題であった。そのため分厚い本は敬遠していたのだけれど、ふとした気まぐれで借りたのだった。いま一度読んでみたらどんな感想を抱くのだろうか。

 そんな僕が大学生になってからというもの、ほとんど本を読まなくなった。忙しいから、他に楽しいことがあるから、人のブログで活字を補給しているから - 理由なんてあげればたくさんある。どんな理由があれども読書量というのは激減し、気まぐれに手に取った新書などを読むだけだった。そしてつい最近。何か相転移が起こったかのごとく、いま僕は本をたくさん読んでいる。書店で平積みにされているような有名どころから食指を伸ばしているところなのだけれど、日常生活に読書という行為がハッキリと加わった。電車の中、食事をしながら、寝る前の少しの時間(これが最も楽しい)、たくさんの本を読んでいる。読みきれるかどうかなんてわからない。でも、本をたくさん買ってしまう。これは研究からの逃避衝動なのかと懐疑的なところも、ある。それでもやはり読書というのは楽しい。

 読書の醍醐味というのはなんだろうか。他人が考えた過程を撫でながら楽しむエンターテイメントな要素もあるだろうし、自分の経験と照合させて感情的な共感を行うこともできる。あるいはいまいち垢抜けない自分の人生のカンフル剤として、読書はそこにあるのかもしれないし、作家が流麗に言葉を繰ることをじっと眺めるものなのかもしれない。ある人にとっては単に暇つぶしの道具であろうし、またある人にとっては知識や手法の蓄積であるかもしれない。

 休日の大型書店は人で溢れている。人と人とが狭い本棚の間隔を縫うように、あるいは肩を擦らせるようにして本を読んでいる。とある女性はタレントのエッセイを読むし、若いサラリーマンなんかは人生論を読んでいたりする。その人を判断するときに、本棚を見てみればいいんだよ、と誰かが言っていた。なんとなくそうかもな、なんてことを思ってる。文章の中で琴線に触れた言葉が金言、あるいは座右の銘となり、その人の心の一部となる。そうして作った心というものが、また読書という行為を求め、人格の一部を形成するんじゃないだろうか。そんなことを昨日ベッドにくるまっているときにふと思った。



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手記 (2010.1)


2009.1.22 (Fri)

 年始の挨拶をしてからもう月末か、と思うと早いものだ。最近は研究も進んでいるような気がするし、今日は学会の概要を仕上げた。いろいろと大変な日々ではあるけれどもお世話になってる社会人の誕生日会の幹事をしたり、月末には東大の1、2年のときの教養のクラスの同窓会もあるらしい。なかなか楽しくなりそうだ。

 ブログを始めて5年になる。当然大学1年生のときもブログを書いていた。当時は本当に日記、という枠組みで自分の備忘録としてのウエイトが非常に大きく、それゆえに書ける内容もあった。今から思えば周囲の人達に大変失礼な内容も書いているし、奇特な読者さんからは「昔の記事も読みました」なんてことを言われて心底恥ずかしい思いをしたりする。けれども僕はそういった記事は残したいと思っている。きっとこんな文章を書いている自分を、将来の自分は恥じるときもあると思う。自分の一日一日を生きた記録を残す、というと寿命が先に見えてしまった末期患者のような気もするけれども、やっぱり一日一日を大切に生きたいと思うし、そんな昔の記事を見てくれる人がいればいいとも思う。僕の周りにはいま、ブログを書いていなければ会えない人たちがたくさんいる。ブログを書いてなければ会えたはずの人もきっといるのだろうけれども、僕はこうやってブログを書いてきたことで出会えたということはやっぱりすごく嬉しいことだと思うし、常にそう思ってる。恥ずかしくて直接言えないからこうやって手記というところに細々と書き残しておこうと思う。


2009.1.3 (Sun)

 みなさまあけましておめでとうございます。Web上の各所でおめでとうの挨拶をしている僕ですがこの手記でも挨拶させていただきます。

 さて、年末を振り返る暇もないまま新しい年になってしまった。年末は東京を皮切りに名古屋、大阪と忘年オフ会なるものをしてきた。各地で思うところがあったのだけれど印象的だったのは大阪でのオフ会だろうか。初めて大阪でオフ会を開いたのは去年の5月最初だった。大阪で実験の出張があったついでと、ゴールデンウィークという日程だったためたくさんの人数が集まった。そのときは馬鹿ほどにウイスキーを飲まされた記憶があってたくさん粗相をしたと思われるのだけれど、大阪の人たちは総じて優しく対応してくれた。そして今回大阪でオフ会を開くにあたって肉欲さんとも一緒に飲んだ。彼も話していたのだけど、やはり大阪でのお酒はおいしいらしい(もちろん彼は九州や山口なのでもっとも近く人が集まりそうな都市といえば大阪なのであろうが)。彼自身も去年は四度ほど大阪に足を運んだようだ。

 オフ会、というのは一般の人からするとまだまだ偏見のぬぐえない響きがあると思われるのだけれど、いまではmixiでも2ちゃんねるでもTwitterでさえもオフ会が開かれるのである。ネットでの出会いに完全に甘んじてはいけないのだろうけれども、僕が通常の生活を送っていたら絶対に出会えなかった人たちがそこにはいて、そこでできたつながりはすごく大切だと思う。きっと今年もたくさんの人と出会うことになると思う。そんな中でひとつひとつの出会いを大切に、仲良くなれたらいいな、なんてことを考えている。次は横浜くらいでオフ会かな!

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手記(2009.12)



2009.12.18 (Fri)

食事を終えたあとにふと、食器の端に残っている米粒だとか、野菜の切れ端だとか、そういったものに気づいては「ああ、お前はなんのために生まれてきたのか」なんてことを思ったりする。食べられるために産まれてきた存在が、人間に食べられるという役目を持たずに捨てられていく。心の中がもやもやする。しかしながら皿にこびりついたキャベツには意志なんかなくて、地球規模で見れば単に炭素の循環の一環でしかなく、食べられるという役割は僕ら人間が付与したものに過ぎない。僕らは主観的で感情的な解釈をして、自分自身への道徳や気慰み、あるいはありあまった思考の対象物、つまりは脳内計算資源のある種の暇つぶし、よく言えば動作確認なんかに使用しているに過ぎない。生きるために生まれてきた人間であるところの僕は、そんな姿を自分自身に投影しては、命ってそんなものなのかな、なんていう諦念とともにすぐさま忘れてしまう。



2009.12.16 (Wed)


テレビの番組も年末モードに入り、今年の漢字であったり今年流行した物などの特集を行うようになった。実験もなんとか終わり通常の生活に戻ったら年末であった、そんな感じ。時の流れというのはとても早い。最近そんな時間の中で何が大切なのかということを考えるようになった。中学生とか高校生のときも同じような議題で悩んでいたような気がするけれども、その頃というのは自我の確立のために悩んでいる感じが強く、今回の考えるという行為は「どうせ時は流れるのだからその中でできるだけ普遍的なものを重視するべきなんじゃないか」という一種の諦念のもとに考えている気がする。身近な話で言えばブログである(というか僕から他の話題が出てくる事はそうそうないだろう)。ブログをやっている人というのはブログのランキング順位であったりアクセス数であったりに一喜一憂しがちなのだけれど、そんなものは一過性のもので記録でもとっておかない限りみんなに忘れ去れれるものであるものなのだ。若いときはそれがよくわかっておらず無駄なこだわりを見せていたのだけれど、最近になってブログに書かれるコメントだとか、コミュニティに参加してくれる人数だとか、そういったものの方が大事なんじゃないかなぁと思い始めた(これらはブログが存在し続ける限り残るのだ!)。周囲から見るとアクセスもコメントも大差がなく俗物的な視点であるのかもしれない。けれども僕としてみれば一日一日のアクセスだとか、そういった類のものにあまりこだわらなくなったような気がする、と思っている。そしてそれが一種の考え方の変化なのだと思ってしまう。こういった思考の延長として最近ブログを毎日書く意欲というのも少し減ってきたような気がする。三日分貯まって記憶がdecayするから書くか、という感じ。僕の諦念に基づいた思考をしていると、良く言えば日々に左右されない考えかたになってきた、悪くいえば一日にこだわりがなくなってきたのではないか。年末になって今年の日数も限られてきた。時間を大切に扱うようになるこんなときだからこそ、自分がどういう考え方をしていけばいいのか、いまいちど考えたいと思った。


2009.12.1 (Tue)

12月になった。実験は相変わらずスケジュールがてんやわんやとしているしブログにも書いているのでここでは書かないようにしようと思う。さて、つい先日の日曜日に久しぶりの休日を得た。水を得た魚のごとく似合いもしない間接照明なんかを買っちゃったりして(1万円かかった)ストレスが溜まってるのかな、なんてことを思った。飲みに行く前に天気が危なかったので洗濯物を回収するために渋谷からいったん家に戻った。地下鉄に入る前はまだ曇り空だった日が、何駅かを経由して地下から抜けるときには真っ暗だった。そろそろ11月も末か、なんてことを思っていたら既に12月も始まっている。時間の流れるのは本当に早い・・・なんて月並みなことも感じつつ、来年なんかは修士論文に追われているんだろうなぁと思う。

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手記(2009.11)




11月20日 (Fri)


また間隔が開いてしまった、とはいえ前回から9日間しか開いてないらしい。ブログを(便宜上)毎日更新していると少し更新しないだけでこんな気持ちになるものだな。さて、最近の生活は実験の準備で忙しい。朝10時に研究室に行って日付が変わるときに帰ってくる。大変そうに見えるけれども研究とは違って成果が目に見えやすくて、そして帰ったら悩むことなく眠れるからこういう生活もたまにはあってもいいかもしれないと思う。でもまぁ土日は欲しい。あと食生活がやばい。毎日コンビニ関係の食事になってる。これはまずいと思い毎日野菜ジュースで野菜を補給する日々。そんな毎日。きっと月末までは。


2009.11.11 (Wed)

ポッキー&プリッツの日とはいうけれどポッキーとプリッツのアンドをとるとプリッツになるよね、なんてことを書いて滞りがちだった手記で生存報告してみる。

2009.11.4 (Wed)

11月が始まった。めっきり気温が下がってきた。イルミネーションや信号機の輝きに少しセンチメンタルな感情を覚え始める季節だ。研究のほうだが、あまり進んでいない。実験の準備を行っていることを言い訳にしている感はあるけれども、いろいろやりたいことが多くて、しかもそれが待たされているような感触を覚える。研究室の液晶が壊れて届くまでに時間がかかっている。シミュレーションを始めたいとは思っているのだけれど、先生に聞いたら少し大仕事らしい。まぁそれはいいとしても、それも来週の水曜日。なんだかふわふわとしている。うまくいってない。

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手記(2009.10)


2009.10.26 (Mon)


ハワイから帰ってきて一週間が経過した。先週は風邪の兆候が見え始めた。喉の痛みから始まり咳、鼻水と症状が変化し、最終的にはなんとか治りかけている。思えば小学校、中学校と僕は皆勤賞だった。風邪を引かなかった、というわけではないのだが、学校を休んだことはなかった。そのことに対して少なからずプライドを感じていた。しかし、高校生のときに学校を休んでしまった。それは体調が悪いわけでも、ずる休みなんかでもない。大学受験の直前講習を受講するためだ。受験の本当の直前になると、塾というものは平日にもかかわらず講座を行う。僕の場合で言えば東大の講習だ。しかもその講習で的中した問題だとかもあるそうで、それは出席せざるを得まい、という判断を下したのだった。大学受験を終えて帰郷した僕は、高校の卒業式に臨んだ。その際に皆勤賞の人は名前を呼ばれるのだけれど、当然ながらそこに僕の名前はなかった。なんだかちょっと寂しかった。あの講習に出なければ僕は大学に合格しなかったのだろうか、などとどうでもいいことをベッドの中で考えてみた。いまから考えると皆勤賞も直前講習もどうでもいいことだったんじゃないか、と思ったりもする。けれどもあのとき僕の下した判断が、いまの僕にどう結びついているのか、ぐわんぐわんする頭を抱えながら、ベッドの中で物思いに耽っていた。


2009.10.21(Wed)


かなり間隔が空いてしまった。ハワイにいる間、この手記は更新しなかったことになる。さて、ようやくいま発表後のバカンス気分満喫してる浮かれ頂点の記事をアップロードした。海もすごいし星もすごかった。それは本文に書いてあるのでよしとして、ほかにもすごいところはある。宿泊料に関してだが、僕らは一部屋$175で宿泊した。しかし、実は$500くらいの値段らしい。すごい。あと、廊下に並んだ骨董品の数々もすごい。総額600万ドルらしい(別にお金だけで僕は価値をはかってるわけではないが、直感的には金額を出したほうが共感されることと思う)。廊下はずっとこんな様子だ。


ハワイ骨董品
@骨董品


ちなみにあまりに廊下が長いためか、ホテル内を電車(トラム)が走っていたりした。速さは人間が歩いたときより少し早いくらい。

生活の様式も違う。そもそも水道水が飲めないのでところどころにこうやって飲料水を置いている。


ハワイ水
@水


水は高いものは3ドル/リットルくらい。安いものは1ドル。部屋に置いてあるものは6ドルくらいする。死ぬって・・・。水道水が飲めない、というのは僕にとってはちょっと厳しかった。ちなみにリゾート地を出るとそこはすぐに荒涼とした土地が広がる。隣町までは7マイル。

ハワイ表示


その間は延々と直線の道路なのである。アメリカの距離感覚で過ごしていると、考え方も大きくなりそうだな、なんてことを思いながら地平線と水平線にはさまれていた。




2009.10.10 (Sut)


ついに明日ハワイに発つ。初めての海外ということもあり準備の手間が悪い。うーん。いろいろ心配だなぁ。さて、めっきり「帽子の中」を更新していないがああいうのはたぶん書きたいときに書くだろう、ということで今日も手記を更新することにした。


2009.10.9 (Fri)


学会発表の練習が終わった。バックアップファイルをたくさんつくっておくほか、できるならば解析も進めたいなぁ。初めての海外旅行なので荷物の整理なんかも気をつけねば。さて、月曜日からブログが更新されてないのでするのである。


2009.10.7 (Wed)


学生実験の手伝い(=無償の労働≠TA)をしてきた。彼らは学科の三年生だ。二年前のそこに僕がいたのだと思うと年月の経過を身にしみて感じる。学会前だというのに三時間くらい潰れてしまったが、普段お世話になっている助教さんのお手伝いをできたのでまぁよしとするか、と思い直す。コーヒーをぐいと飲み干して、明日の朝くらいまでには発表用の資料と原稿を完成させたいところ。


2009.10.6 (Tue)

現在研究室にいる。今日の前半は海外渡航のための資料とかでそこそこ潰れてしまった。学会の発表資料を作りたいのだけれどシミュレーション結果が送られてこないとなかなか手を付けられなさそうだ。目的と原理くらいは書けるだろうか。いずれにせよサンシャイン牧場をやってるよりはマシか・・・。データ解析も引き続き行っているが、こちらもシミュレーション結果がない以上暗中模索な様相を呈しているような気がする。先生に言われたこともなかなか難しい。いったいどうしたものか・・・。

//その2
夜になった。シミュレーションデータに関しては他の助教さんなども所有しているらしいので、学会前までには手に入れられる見通しがたった。理想的には作った本人から頂けるのが良いのだけれど。データ解析も進んでいる。過去の実験データの再現性と、シミュレーションの再現性ふたつが見えている。素晴らしい結果だ。解析に夢中になると学会での発表準備を疎かにしてしまいそうで、直前に泣きを見るのが目に見えている。



2009.10.5 (Mon)


来週には空港にいるはずだ。研究ではとんでもないことが起こってしまった。ハワイの学会では発表の方針をある程度転換させねばならない・・・と思うとちょっと大変かもしれない。話は変わるが最近マジでおなかのお肉がまずいと思っている。マジで脂肪だ。シーボ脂肪で死亡、なんてシャレになってない(シャレにはなってるぞ)。さきほど朝ごはん用に買ってきた食事を寝る前だというのに平らげてしまった。独り暮らしをはじめて以来ずっとなのだけれど、僕は食物を家に貯蔵しているといつでも平らげてしまう。だから僕は冷蔵庫には何も貯蔵しないのだな(あるいは食べつくして何も残らない)、と最近自覚した。誰か冷蔵庫に鍵をかけろよマジで・・・


2009.10.2 (Fri)

手記と帽子の中のタブのことをブログ本文に書いた(これも本文だが)。

ついに金曜日だ。今週から研究室のミーティングが月曜日になったためか、一週間を有意義に使えた気がする。もう少ししたらハワイの学会であるのだけれど、海外旅行が始めてな僕はいろいろしなきゃいけない。パスポートも取りにいかなきゃいけない、ESTAに登録しなきゃいけない、出張用の書類を出さなきゃいけない、キャリーバッグを買わなきゃいけない、トラペも、発表練習も、髪の毛もきらなきゃ。やることはたくさんあるのだけれど、あまり精神的に追い詰められていない。先月あった英語の発表とその準備で相当追い込んだおかげか、精神的な器が大きくなったのかな。

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手記(2009.9)

2009.9.30 (Wed)

ブログのタブの部分にネタ文章などを投下できる場所を追加してみた。深夜5時になにをやっているんだ・・・とお思いになるのだけれど、過去ログ選などを作っていると懐かしく思う。あまり昔のものは黒歴史度合いが高いのであまり見る気になれないのだけれども・・・。


2009.9.29 (Tue)


面白い文章を書く、というのはかなり骨が折れる、と思った。とくに僕のような日常をつづるブログを書いていたとする。文章は毎日の出来事が基礎になるので基本的に面白いと感じることがないと面白い文章はなかなか書けない。書く本人が面白いと思っていないのに面白いと思える文章なんて書けないと思う。もちろんネガティブな方面にひたすら自虐する文章というのも楽しい面もあるのだろうけど、そういったことを毎日書いていたら飽きるし、偽っている疲れると思う。一方で、見てくれる人もたくさんいるのだから少しでも面白くしたい、というのはある。

面白い方向というのは実はたくさんあるようだ。最近僕はいろんな面白いブログを見るようになった。たとえば「カフェオレライター」 なんかは面白い。写真を適切に使いつつ、自分と兄弟の会話もうまく文章に混ぜることで独自性を出している。よくある2ちゃんのコピペの人気サイトなんかはアクセスはたくさん稼げそうだけれども、そこに 「自己性」 を主張できるかというとかなり疑問だ(もちろんレスを恣意的に抽出できるのだから自己性はあるのだが、管理者本人のプライベートなどを織り交ぜたい、というのもブロガーとしてはあるのではないか) 。 だからこそ、「カフェオレライター」 みたいな文章には惹かれるところがある。 面白いブログといえば 「肉欲企画」 もある。これはずっと前から見ているのだけれど、文章力・語彙力ともに秀逸なブログだ。あそこまで文章を綴れるというのは憧れる。けれども僕がそれを真似できるのかというと、そうでもないような。 taks君の描く 「オーシャンまなぶ」 はマンガであるが、これもまた毎日かなりのアクセスがある。こういった視覚的に面白いというのに特化したものもあるのだな、と思う。ニコ動とかで自分の曲が有名な○○P のブログなんかもかなりアクセスがあるので、こういった芸術的な才能があるのはすごいな、と思う。同じニコ動でも人気の実況者のブログなんかもかなり有名なようだ。これもやはりすごい。うまくニコ動を利用できればアクセスも稼げるのかもなーなんて思ったり。はてなブログで常時ホットエントリになることができれば、これも同様にアクセスがたくさん来るんだろうなぁ。

日記を書いているだけじゃアクセス数なんて頭打ちなんだから、こういった面白い要素を抽出して何かできたらいいな、と思う。そのためには何か普遍的な面白さが必要なんだろう。僕は最近、「カフェオレライター」 みたいな文章が書けたらいいな、なんてことを思い始めている。



2009.9.23 (Thu)

ついに五連休が終わってしまった。ひとつ眠ればまた明日からは平常の日々だ(もう日付は変わっているが午前1時だ)。学会前に五連休丸々休むのはちょっと気が引けたのだけれど、GWもお盆もなかったからよいだろう・・・と自分に言い聞かせて休んだ。おかげで精神的なゆとりはだいぶん取り戻した気がする。


2009.9.22 (Wed)

手記などというものを書いてみようかと思い始めこのカテゴリを作った。ブログトップからリンクが張ってあるし、Google Readerなどをお使いの方は即座に更新がわかるだろう。どんなことを書いていくかはわからないし、結果的には消えてしまうものかもしれない。当面はブログでは多く文面を割けなかったところや、日々感じたけれども日記にはふさわしくないというものを書いていこうと思っている。突如として絵日記を投下する手記になるかもしれないし、下ネタ満載の手記になるのかもしれない。新しくブログを始めようと思ったときに、スタイルのぶれというものは仕方のないものだ。別の言い方をすれば固定化された書き方とは違ったスタイルを模索する手記になるのだと思う。なお、日付は最新のものにするとアクセスの多いブログトップに反映される。混在させるのもアレなので僕の生年月日+5(ブログ暦5年) とする。ブログが18年以上続いたら重複がでてくるのだけれど、それまでは考えなくていい問題だと思ってる。


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