シーボの日記

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手記(2009.12)



2009.12.18 (Fri)

食事を終えたあとにふと、食器の端に残っている米粒だとか、野菜の切れ端だとか、そういったものに気づいては「ああ、お前はなんのために生まれてきたのか」なんてことを思ったりする。食べられるために産まれてきた存在が、人間に食べられるという役目を持たずに捨てられていく。心の中がもやもやする。しかしながら皿にこびりついたキャベツには意志なんかなくて、地球規模で見れば単に炭素の循環の一環でしかなく、食べられるという役割は僕ら人間が付与したものに過ぎない。僕らは主観的で感情的な解釈をして、自分自身への道徳や気慰み、あるいはありあまった思考の対象物、つまりは脳内計算資源のある種の暇つぶし、よく言えば動作確認なんかに使用しているに過ぎない。生きるために生まれてきた人間であるところの僕は、そんな姿を自分自身に投影しては、命ってそんなものなのかな、なんていう諦念とともにすぐさま忘れてしまう。



2009.12.16 (Wed)


テレビの番組も年末モードに入り、今年の漢字であったり今年流行した物などの特集を行うようになった。実験もなんとか終わり通常の生活に戻ったら年末であった、そんな感じ。時の流れというのはとても早い。最近そんな時間の中で何が大切なのかということを考えるようになった。中学生とか高校生のときも同じような議題で悩んでいたような気がするけれども、その頃というのは自我の確立のために悩んでいる感じが強く、今回の考えるという行為は「どうせ時は流れるのだからその中でできるだけ普遍的なものを重視するべきなんじゃないか」という一種の諦念のもとに考えている気がする。身近な話で言えばブログである(というか僕から他の話題が出てくる事はそうそうないだろう)。ブログをやっている人というのはブログのランキング順位であったりアクセス数であったりに一喜一憂しがちなのだけれど、そんなものは一過性のもので記録でもとっておかない限りみんなに忘れ去れれるものであるものなのだ。若いときはそれがよくわかっておらず無駄なこだわりを見せていたのだけれど、最近になってブログに書かれるコメントだとか、コミュニティに参加してくれる人数だとか、そういったものの方が大事なんじゃないかなぁと思い始めた(これらはブログが存在し続ける限り残るのだ!)。周囲から見るとアクセスもコメントも大差がなく俗物的な視点であるのかもしれない。けれども僕としてみれば一日一日のアクセスだとか、そういった類のものにあまりこだわらなくなったような気がする、と思っている。そしてそれが一種の考え方の変化なのだと思ってしまう。こういった思考の延長として最近ブログを毎日書く意欲というのも少し減ってきたような気がする。三日分貯まって記憶がdecayするから書くか、という感じ。僕の諦念に基づいた思考をしていると、良く言えば日々に左右されない考えかたになってきた、悪くいえば一日にこだわりがなくなってきたのではないか。年末になって今年の日数も限られてきた。時間を大切に扱うようになるこんなときだからこそ、自分がどういう考え方をしていけばいいのか、いまいちど考えたいと思った。


2009.12.1 (Tue)

12月になった。実験は相変わらずスケジュールがてんやわんやとしているしブログにも書いているのでここでは書かないようにしようと思う。さて、つい先日の日曜日に久しぶりの休日を得た。水を得た魚のごとく似合いもしない間接照明なんかを買っちゃったりして(1万円かかった)ストレスが溜まってるのかな、なんてことを思った。飲みに行く前に天気が危なかったので洗濯物を回収するために渋谷からいったん家に戻った。地下鉄に入る前はまだ曇り空だった日が、何駅かを経由して地下から抜けるときには真っ暗だった。そろそろ11月も末か、なんてことを思っていたら既に12月も始まっている。時間の流れるのは本当に早い・・・なんて月並みなことも感じつつ、来年なんかは修士論文に追われているんだろうなぁと思う。

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