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シーボの日記

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手記(2010.6)


2010.6.10 (Thu)

たとえば10代前半の頃「悩む」という行為はとても強い衝動から生じるものだった。その悩みはとても大きなもので、常に頭の中には鈍い苛立ちが存在していた。こころの中でなんども同じ言葉が反芻され、他人の言葉が想起され、(とてもめんどうなことだが)いちいち化学反応を起こしているような状態だった。ものごとは悩むという次元にのみ縮退し、悩むという行為をもってのみ自分自身が正当化されるような錯覚も感じた。10代も後半に差し掛かったところで、どうやら人間というのは(あまり一般化すると問題だが概してそうだろうと思う)悩むのが好きな動物であることに気づく。さらにその「悩みがない人間」というのは比較的まれなケースであることにも気づいたし、彼らもが悩まないように見えるのは多くの場合、思考の単純さに基づくものではなく悩むことからの超克(もしくは逃避)から生じているのではないか、と思うようにもなった。現象論的には一緒だが、根底はまったく違うのだ。

最近の自分はどういった種類の人間になっているのか、ふと考えることがある。上述したような鋭い攻撃性のある悩みというのはいくらか摩耗してしまい、悩む、という行為に酔いしれることも少ないと思っている。けれども漠然とした「ひっかかり」が僕の胸に存在していて、それは自分自身のどんな感情に基づいているものなのかと最近考えている。きっと自分の中ではそれらの原因はわかっているはずであって、言葉にするのも容易い。とてもプリミティブなものであるとも確信している。

それでも。

わかりきった答えを目の前にして二の足を踏んでしまう精神構造は時として自分に思わぬ感情の没落を生んでしまうことがある。それはあたかも躊躇することを楽しんでいるような倒錯的な欲求とも感じさせるし、差し迫った悩みのない自分へ悩みをふりかけるような呪縛的な性質を持ったものだとも感じる。クリアカットな問題をわざと濁らせるような、非合理的な悩みへの回帰という点で、成長したのかどうかさえ、よくわからなくなってくる。はてさて、これはどういった了見だろうか。


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