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シーボの日記

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手記 (2010.7)

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2010.7.30 (Fri)

鍵


ある日ある時貴方が恋人の部屋の合鍵を手に入れる日が来るとして、それは何かを証明するだろうか。人を愛したり好意を抱いたりする際に「付き合っている」ということが昔の僕にとって愛することを証明する唯一のものだった。けれどもそれは全くの幻想で、付き合っていても不貞を犯す異性もいるし、別の人に好意を抱く自分もいるはずだ。僕がそんな当たり前のことを思い知らされたのは数年前のことで、一般の人に比べたら遅いのかもしれない。それまでの僕はただ単に「恋人」という関係の上にふんぞりかえって、当然の権利のごとく相手を非難したことがあった。相手の寛容をいいことに独占欲を強くしてしまうこともあった。僕の中で「付き合っている」ということが必ずしも信頼の証と同値にならないこと、あるいは好きだと思う気持ちと相手を信頼することが別問題であると思えてしまう以上、それらの超克の上に「愛すること」ができるかどうかは、かなり難しいように思う。

ある日ある時誰かが誰かに「鍵」を渡したとして、相手の中に潜む怪物、あるいは自分の中に潜む怪物の扉をも開けてしまうのではないか。あるいは、その上にこそ成り立つ愛情こそが本当の愛情なのかもしれないな、とも思う。









2010.7.26 (Mon)


言葉を発するとき、それは特定の相手に向けられている。そう、集合の一要素に向けて発語されている、ということが実は多い。抽象度を上げて発言から対象が特定できないようにしたとしても、間違いなくその発言の裏側には具体的な人間が該当する。もちろん文章全体から特定の一人を指す場合ではないにしろ、僕の感情の裏にはいつだって人間が存在して、その人に向けて届くかどうかもわからないメッセージを放っている。そんなことをつい最近考えつつある。結局のところ僕は一般論を述べて高尚なフリをしたいのではなく、誰かに聴いて欲しくて、誰かに気づいてほしくて言葉を並べ立てるんじゃないか。言葉を発するということは、結局はそこに由来するものであって、自分の気持ちをごまかしてまで発語する必要はないのかもしれない。




2010.7.26 (Mon)

「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていた」

僕の敬愛するMr Childrenのイノセントワールドにはこのような歌詞がある。ふつう、多面的に物事を捉えられる人間は強い。ギャンブルをする折、相手の顔色から感情の機微を読み取れる能力に長ける人は麻雀の盤面上の計算を軽々とやってのける能力と同じくらい大切であるし、初めて失恋をした人間よりも何度も失恋をした人間のほうが失恋からの立ち直りは早いはずだ(もちろんその感情の入れ込み具合にも依るし単純に正の相関はないのだろうけど・・・)

たとえば恋愛のことを考えてみよう。昨今の恋愛とは実に多面的な意味をもつものであり、愛し方、愛され方や恋愛における考え方などはかなり異なっている。いろんな人の話を折に触れては聞く機会が比較的多い僕は人の話を聞くたびに「同じ人間なのにここまで考え方が違うのか」と驚かされることが多い。以下に僕が述べることは傍聴者としてできるだけ相手の真意を素直に取り出そうと心がけた結果、かなりの誇張などを含めて、恋愛とは多くのケースがあるのだということを書きたいと思う。嘘やフィクションも多分に混じっていることを留意の上で読み進めていただきたい。

ケース1

「いやぁ、別にファッ◯できればいいんすよぉ」

カクテル片手に語る彼はまだ10代の男性だ。実に素直に彼は語る。大学に入学したばかりでお酒にも慣れない彼は周りが脱童貞していくさなか、自身の純情を持て余し20代になった今もまだ牙城を崩すことはない。性欲が先行する恋愛というのはある意味とてもシンプルだ。というのも人を愛することと性欲が同一視され縮退しているからだ。


ケース2

「楽しければいいんですょぉ」

いろんな男性を(文字どおり)股にかける彼女は語る。20代になったばかりの彼女は人目を憚ることなく僕に語った。彼女にとって恋愛とは実に享楽的な意味を持つもので、自分が楽しければ良い、のである。その周りに生じうる軋轢や災難などなんのその、うまい具合に立ち回りその荒れた人間関係のなかにさえ楽しみを見出そうとしているところさえ見られるのだから、もうこれは敬意を表すしかないのである。


ケース3

「浮気とかする女性はあんまりいないと思いますよ!」

恋愛に対してかなり疑心暗鬼だった僕にそんな言葉を放った女性がいた。彼女はいま現在好きな人がいて、純粋に彼のことを愛している。相手に対して全面的に信頼をおけるその言葉の裏にはある意味での強さと脆さが併合していることを感じながらも、僕が失ってしまっているものを、内示的に気づかせてくれるのである。



と、幾らかの恋愛に対する考え方を折に触れては聞く機会がある。彼らの考えと僕の考えは当然違うし、聞き手である僕がかなりの歪曲を行った上で相手の考え方を理解したフリをしている可能性もある。それでも人の話を聞くというのはとてもとても面白いことだと思うし、物事を多面的に捉えることができるという意味で有意義だと思う。さて、冒頭にて述べた「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失っていた」でありますがそんな風に他人の考えを聴いてばかりで一向に彼女ができる気配がありません。


人の話を聴いてばかりの僕は、いつも割を食ってばかりなのかもしれない。そしていろいろ何も考えずに書いてみたけどオチがない。僕も恋にオチない(さむい(そろそろ死のうか




2010.7.4 (Sun)


僕のなかで言葉はまわりまわって、そして時折外に出てくる。

時として言葉は人を傷つけるものにもなりうるけれど、人をずっとずっと優しくさせる言葉もある。それはきっと聖書なんかに乗ってる難しい言葉でも、手垢にまみれた偉人たちの名言なんかでもなくって、きっと僕が好きな人たちが放った、なんの気のない一言だったりするかもしれない。人を救ってる気なんてなくても、僕の言葉があなたを救うことがあるかもしれないし、あなたの言葉が僕を救ってることはたくさんある。言葉が伝達によって増幅する機構をもち、ときには残酷に人の心を引き裂くこともある。一心同体であり、コインの裏表でもあり、捉える人によっても違ってくる。僕たちはときおりその結果を恐れてしまい、口を塞いでしまうこともあるかもしれない。けれど僕はやっぱり口を開いてしまうし、どうしたって人との関わりを求めてしまう。求めれば求めるほど傷つけてしまう加害妄想と被虐嗜好が宿命的に存在するとしても、それでも僕は話したいと思うし、耳を傾けたいと思う。




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