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シーボの日記

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旅立ちのための死とは。


ケータイから書き込みテスト





つか今日からカプセルホテルに宿泊します(親に負担かけたくないから)








22日までです…。


死にます、きっと




あ、あと、一人ぐらし、部屋さがしをする方、
以下のページをごらんあれ。
かなり勉強になります。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Green/3416/




あまりにもそっけない文章なので、
以前僕が書いたテキストでもお読みいただけたら幸いです。









以下は僕の夢想である。




夢想であるので、文献も参考にしていないし
他人を納得させるために書くものでもない。
「結論」を出したいのでもない。
ただ、僕が考えることについて、読んでいただきたい。




人間とは、その職業のステータスが高いと知ると、
自分が「好き」だと思い、志向しはじめる。
もちろん確固たる見識をもち、志向する人間、
親がその職業だという人間もいるだろうが、
大部分の人間にとっては、関係ないことである。
僕も多分にもれず、その人間だったわけである。
今でも心のどこかで医者の道を志している。
大学入試でも、後期日程は地元の医学部に出願した。
(前期日程は今春通う大学である)





そんな僕は、医学関係のことによく夢想するのである。








人間の死とは。まず、定義しよう。無機的かつ、科学的に述べるなら、それは「ある生命主体の消滅」である。尊厳死の場合、「ある意識主体の死」と社会的に認められているようだが、僕が意味する「死」は肉体的な死である。(この場合、僕がこの立場をとるとき、植物状態の人間は「生存」していると定義される)さて、死とは、細胞内のアポトーシス、つまり自殺因子、もっと深く踏み込むなら熱エントロピーの関係によって生じる蓋然的なものなのだ。ここで僕が提唱したいのは、「平衡」の概念である。一般的な意味として、平衡とは反応系の中での反応速度がつりあう状態のことだ。つまり、僕が述べるところ、生命主体と、無機的な物質とは「平衡」状態にあり、高次に組み立てられる生命は非常に「不安定」な存在ということだ。ある一定の条件を満たした、人間に関して言えば地球なのだが、特異な環境でしか存在しえない。それをどう解釈するかは個々人によって異なるのであろうが、生と死の原点はここにあるように思われる。生命倫理についてはどうであろうか。尊厳死、クローン技術、遺伝子操作、優生学。昨今、倫理的側面が問題視されている一例である。そもそも「倫理」とはいったいどのようなものだろう。「人間として人生をよりよく生きるための学問」。誰かがそう主張する。確かに、幾多の人間が積み上げてきた学問、人類の英知であろう。人間生活においては絶対的に正当性をもつものであろう。しかし、生命技術の研究が大幅に制約を受けることには納得できないのである。「倫理」が人間の「知」の探求を妨げることはその性質上、許されることではない。新たな「知」がまた「倫理」を変形させ、高次のものへと昇華させるからだ。地動説が主張されたとき、宗教的に正しいとされる天動説が叫ばれたものと類似した感覚を得るのである。つまり、「倫理」は今や、「宗教」へと変貌しているのではないか。僕はそう思う。遺伝子技術についても考えたい。上記と似たような主張になるが、クローン技術は、倫理的な正当性をも持ち合わせるものである。なぜなら、その進歩によって多くの難病が解明され、「よりよく生きる」の定義には合致する面も持ち合わせるからだ。優生学につながるという指摘もある。僕もこの点については賛成しかねる。しかし、「知」の探求が人間の本能的欲望に関係する以上、避けることはできないものだろう。

| 日々の出来事。 | 02:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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